2006年2月4日(土) 恩を仇で返す“もんた” 

2006年2月5日(日) 猫神さん  

 帰省2日目。昨夜遅くまでの酒盛りの余韻で、午前9時過ぎにゆるゆると起床。墓参りの後、お土産に自家製野菜をどっさりもらい、Erill実家を後にしました。
 さて、Erill両親宅の近くには、少し珍しい神社があります。「お松大権現」という、猫を神様にした神社です。通称、「猫神さん」と呼ばれ、勝負事に御利益があるとされ、受験シーズンには合格祈願の受験生がたくさん訪れます。地元民のErillも、高校、大学受験とお世話になりました。実は、今年、受験生の姪っ子がいるTarlin、根っからの猫恐怖症。「境内に猫がおるじゃろ、嫌じゃ!」と言い張っておりましたが、可愛い姪子のためと意を決し(!?)、立ち寄ることにしました。

 みなさん、“もんた”を覚えてらっしゃるでしょうか。 そうです、Erill の実家で飼われている柴犬、正式名称「ノア」です。 (もし、お暇でしたら 2004年11月6日のめんこい姿を見てやって下さいませ。) 2004年の暮れに Erill家に幼犬としてもらわれて、私 Tarlin も、だっこもしてやったし、噛みつかれもしてやりました。 しかし、ほぼ1年ぶりに、Erill 実家を訪れた今日。 なんと、だっこしてやった恩も、噛みつかれてやった恩も忘れて、まるで Tarlin を泥棒の如く吠え立てるのです。 それも半端な吠え方ではありません。 狼のように唸りもって吠えるのです。

 元来が犬派の Tarlin 。 犬もそれを分かっているようで、大抵の犬がじゃれついてくることはあっても、吠え立てたりされたことはありません。 

   はっきり言って、少々  む・か・つ・き ました。

それにも増して申し訳ないのは、Tarlin が吠えまくられている脇で、 Erill母様が、「これは、どうしたことか・・・」と、うろたえてオロオロとしておられたことでした。 そうです、私ばかりではなく、ご主人様まで困らせているのです。 ・・・見損なったぞ、“もんた”   ですが、確かに目つきも一段と座ってきて、良い番犬になったのかもしれません。

れた妻のお松が、証文を要請するが聞き入れられず、土地を担保に取られ、奉行所に訴える。しかし、その美しさに、奉行から自分の意に従うよう迫られたお松は、これに従わず、そのために、貸し主から賄賂を受け取っていた奉行から処刑を命ぜられ、川原で愛猫とともに斬首。その夜から、奉行と貸し主の家には夜な夜な化け猫が出るようになり、二家とも滅んだ・・・というもの。
 ここで、疑問。忠義に富んだ猫の怨霊を鎮め、祀ったのは分かりますが、なぜ勝負の神様なのでしょう?金銭の沙汰ということで、商売繁盛なら分からなくもないですが。猫神→招き猫→招福→運を呼び込む→必勝!ということなのでしょうか。
 猫神様の後は、あざらしです。11月に会えなかった、那賀川の「ナカちゃん」。Erill両親が見たという話に勢いづいて、観測地点まで出向いてみましたが、今回も会えませんでした… う〜ん、次の機会はいつか? しかたなく家路に着き、淡路で夕食用にレトルトの「蛸カレー」なるを買って、京都まで急いだのでした。この蛸カレー、レトルトながら鳴門海峡の潮で揉まれた蛸は柔らかく、なかなかの味でした。こうして、「犬」「猫」「あざらし」と動物ずくしの帰省は、蛸で締めくくられたのでした(・_・)。

追記 : 前日の日記で、Tarlinに吠え続けた“もんた”。しかし、“もんた”をいつも世話しているErill父が現れると、ぴたりと鳴きやみ、その後、Tarlinもれっきとした一家の一員であることを想い出したのか、二度と吠えることはありませんでした。ちなみに、Erillの場合、吠えられることはないものの、去年の11月に帰省した時はやたらと「甘咬み」され、撫でるのもはばかられたというのに、今回はほとんど咬まれることもなく、安心して可愛がってやることができました。さすがに成長したものです。

 駐車場で車を降りると、まず目に留まるのは、巨大な招き猫。2mの巨体に満面の笑みで、石段の下に鎮座しておられます。石段を登り、鳥居をくぐると、境内の拝殿、本殿、小社、建物という建物に招き猫が所狭しと並び、合格祈願の絵馬がびっしり吊されています。以前は、猫を祀る神社なら面倒を見て貰えると、捨て猫が後をたたず、境内には奈良公園の鹿の如く猫があふれ、裏にある中学校(Erillの母校だったりします)に授業中に猫が迷い込む・・・ということもあったのですが、神社の方で面倒を見きれなくなったのか、10数年年前から「捨て猫禁止」の札が立

ち、今は社務所で飼っているとおぼしき猫の姿が二匹ほど見えるだけ。Tarlinも、ほっと一安心です。
 神社を出る前に、資料館に入ってみました。この神社の縁起は、化け猫伝説。江戸時代、不作が続いた村を救うために借金をした庄屋が、貸し主から通りがかりに返済を迫られ、金を返するものの、証文を貰えないまま病死。残さ

 トリノ五輪の開会式。五輪開会式・好きのErillには見逃せません。どちらかというと競技は見るけど、開閉会式にはあまり興味のないTarlinもずるずるといっしょにNHKBSの午後の録画放送で観ました。
 感想は・・・ イタリアらしい、現代と古典がないまぜになった、奇抜で勢いあふれる賑やかな演出でした。"Passion lives here.情熱はここにいきづく”という全編にわたるコンセプトがあるそうですが、ルネサンスからオペラ、フェラーリまで、てんこ盛り過ぎて何やら訳の分からない感がありました。が、それも勢いでまとめてしまうところが(まとまっていたのか???)、イタリア的なのでしょうか(@_@)。以下、特に思ったことを書くと・・・
 ・火がいっぱい!
  情熱を表すためなんでしょうが、派手!熱そう!聖火点火も花火 。これは、華やか。
 ・イタリア人は、揃えるのが苦手!? 
   大勢によるダンスや、ポール上での28人によるワイヤーダンスなど、団体での動作
   が見事に揃っていません(^-^; きっと、ついつい自分のペースが出てしまうんでし
  ょう。この大らかさ、愛嬌たっぷりです。でも、フィギュアのペアは無理かも・・・

2006年2月11日(土) トリノ五輪開会 〜 パヴァロッティの歌声 

 派手な演出に引き気味になりつつ、突っ込みながら見ていた開会式ですが、最後の最後に大きな感動が待っていました。オノ・ヨーコさんが登場し、「イマジン」が流れたあたりから(これもよかった)、音楽ということは、もしや、もしや・・・と期待が高まったのですが、本当に登場されました、ルチアーノ・パヴァロッティ!
 昨年10月12日、70歳の誕生日を最後に引退したパヴァロッティ。確かに最盛期の太陽が光り輝くような声の艶は潜んでしまったようですが(注:残念ながらCDで聴いているだけですが)、かえって深みを増し、テノール歌手の水準を軽く越えてしまう声の延びは、素晴らしいとしか言いようがありません。特に『誰も寝てはならぬ』の最後を飾る高音部の絶唱は、3大テノールの他の2人、ドミンゴとカレーラスが歌ってもなかなか声が出きらず、パヴァロッティだけが朗々と輝かしく歌い上げることが出来るのですが、今回ものびやかで自然な高音を響かせてくれました。
 ご存じの方も多いかと思いますが、『誰も寝てはならぬ』は、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』の中で、トゥーランドット姫が求婚者に出した3つの課題(解けねば死罪)を解いた主人公の王子カラフが、姫を慕って唱うアリア。その歌詞の最後は、「おお、夜よ失せろ!おお、星よ沈め!星よ、沈め!夜が明ければ、私は勝つのだ!勝つのだ!勝つのだ!」という絶唱で締めくくられます。カラフの勝利の歌と、パヴァロッティのテノールと、オリンピック - これ以上の晴れやかな取り合わせが、どこにあるでしょうか。
 引退後、まさにパヴァロッティのために用意されたような五輪の舞台で、歌を与えられたことへの歓びと感謝とを一心に表した、敬虔な深い祈りに満ちた歌声と歌い姿。神に祝福されたアスリートの集う場に現れた、神に祝福された歌人 − そんな言葉が浮かぶ、式典の幕引きでした。

2006年2月18日(土) 奇跡のカーリングに涙 

 最近、我が家では妙にトリノ五輪に盛り上がっています。というのも、Erill& Tarlin母が、男子フィギュアの演技を見て、妙に浮かれているからです。 しかし、私こと Tarlin は、あの、跳んだり回ったりするばかりのフィギュアの演技にどこか冷めています。 ペアに至っては、雑○団のような演技もあり、五輪と言うよりもまるでサーカスのような・・・。 まぁ、我が家の女性陣は、男子フィギュアに対しては、単に演技だけではなく、その容姿に浮かれているきらいもなくはありませんので、それはそれで健全と言えましょう。
 そんな Tarlin が冬の五輪で最も好きな競技は、なんといってもカーリングです。 これを、わびさびを理解できずに、きらきらのフィギュアに目を輝かせている Erill に言った日などは、それまできらきらと輝かせていた目が一瞬にして “点” (・o・) になり、“うつろ“ (- -);になってしまいます。そして、間をおいて吐き出される言葉が、「あんなん、どこがいいん? みんな、(以前にも申したことがありますが、Erill の“みんな“とは、必ずしも everybody ではありません。周辺の2,3人であることをつきとめています)あんなん、つまらんって言ってる。」です。 「むかっ。」 まぁ、いいのです。カーリングの奥深さを理解出来ない人達と議論していても、それは、お酒が飲めない人に、お酒は美味しいよと言っても分かってもらえないようなものです。更に言えば、トイレに行きたくも無い人に、「今、トイレに行くのが素敵よ。」などと言うようなものです。
 それは、さておき、今日の女子カーリング「日本 vs. カナダ」は最高の一線でした。 2連敗していた上に、カーリング王国のカナダ(Erill よ、こんな国もあるのじゃ、何が、“みんな“、つまらんと言うとるのじゃ・・・カナダでそんなことを言うと、即、「詐・欺・師」にされるぞよ)との対戦で、しかも、もう後が無いと来ていたので、とても心配だったのですが、見事な戦いでした。最終エンドでは、せっかくのリードが同点に追いつかれるのではないかと、我が事のように冷や冷やとしましたが、主将の小野寺さんが、今日、何度かピンチを救ったミラクルショットで危機を乗り切ったのでした。最後、ゆっくりと回転しながら滑ってきた日本のストーンがカナダのストーンをはじき出して、自らは残ったときには、それまでの緊張が一瞬にして脱力してしまいました。
 また、試合後も良かったです。負けたカナダの選手も、王者の貫禄か、とても気持ちよく、日本の選手達と握手を交わしていました。 カーリングには他の競技にはない、緊張感と試合後の清々しさがありました。是非、日本でも、もっと認知度が上がればと思います。

 カーリング女子の予選が終わりました。土曜日のdiaryでTarlinに「カーリングを理解せぬは人非人なり」のように書かれたErillでしたが、Tarlnの解説付きでイギリス戦、スウェーデン戦と観ているうちに、かなり面白さが分かってきました。カーリングの緻密な頭脳戦は、推理や古典軍記物の知略に通じる魅力があります。もはや、はまりつつあります。冬季五輪は、フィギュアスケートやスノーボード, フリースタイルスキーなどErillの趣味に合う曲芸系競技(そう、どうせ「跳んだり回ったり」が好きなのよ、ほっといて〜!)が多く、ただでさえ観戦に多大な時間を費やしているのですが、次のバンクーバー大会では、さらに観る時間が長くなりそうです。
 それにしても、日本チーム、世界の強豪相手に本当に善戦しました。同列4位の可能性のあったカナダが6勝目をあげ準決勝進出を決めたので、スイス戦の勝敗にかかわらず日本は準決勝には残れませんでしたが、最終日はスイスには敗れたものの、イタリアに競り勝ち、最後までいい戦いを見せてくれました。次の五輪が楽しみです。
 さて、このカーリング、試合開始前に必ずバグパイプで"Scotland the Brave〜勇敢なるスコットランド”が流れます。「はて?」と思いきや、スコットランドが発祥なんですね。カーリングは、2チームでストーン(石)を投げ合って、40m離れたハウス(青い円)の中に入れ、一番中心近くにストーンを入れたチームに得点が入る競技。氷上を滑るストーンと、これを投げる人、ストーンの動きを誘うために氷を掃く(スウィープする)人以外に動くものがなく、一見して単調です(だからルールをよく知らないと退屈に見えます)。加えて、ストーンを氷を掃く動作が、何とも辛抱強く、悪く言えば辛気くさく見えてしまいます。
 この悠長なまでの単調さ、何かを思い起こさせます。スコットランドのお隣、同じブリテン島のイングランドの紳士淑女のスポーツ、クリケットです。野球の原型、ハリー・ポッター・シリーズのクィディッチのモデルのこの競技、Erillも一度テレビで垣間見たことがありますが、ほとんど動きがあるのかないのかも分からないほど悠長で(一応、球をヒットしたら走るようですが・・・)、ただ人がフィールドでのんびりしているように見えるだけ・・・ 標準試合時間は、何と5日間(!)、短縮ヴァージョンで丸一日とか(@_@)。う〜む、カーリングの比ではありません。またカーリングはエンドという野球の回(イニング)にあたるゲーム展開上の単位がありますが、クリケットにもオーバーという単位があります。さらに、カーリングもクリケットも円形(球形)の物を飛ばして得点を競うという、競技の根幹で共通しています(ちょっとおおざっぱですが)。
 そういえば、カーリングと同じくスコットランド生まれのゴルフも、草原でひたすら球を打って飛ばし、遠くのグリーン(カーリングのハウスに相当しますね)の穴に入れるだけ。方や狭い氷上、方や広々とした草原と、印象は一見正反対ですが、競技の本質、単純かつ悠長なところ、似ています。これにクリケットを加えた、同じブリテン島発祥の3競技、動というよりは静で、品格のあるところ、ブリッティッシュ共通の好みを感じます。その一方で、同じブリテン(イングランド)起源のサッカーやラグビーが、動のスポーツであるのと対照的。ブリテン文化の静と動でしょうか。イギリス(ブリテン)起源の様々なスポーツ競技、その特徴を見ていくとイギリス(ブリテン)文化の様々な系統と性格が見えるのかもしれません。

追記:日本の柔道や相撲、剣道も技に型があり、短時間で勝負が決まるところなど共通していますね。日本的美学の反映と言われていますね。

2006年2月21日(火) カーリング〜ブリテン的競技 

2006年2月25日(土) 金メダル 〜そして反省〜 

 Tarlin は、この一週間、福井のとある地の寒風吹きすさぶ現場(まだ、建設中で暖房も効きません T_T )で、ご奉公に励んでおりました。当然の事ながら、出張ですので、お宿に泊まっておりました。そして、木曜日の晩は、一緒にご奉公している仲間と、一週間の労をねぎらおうと、少々はりこんで、カニすきの宴会を催しました。 ただ、まだ一日お仕事が残っているのと、女子フィギュアをLIVEで見るために、いつもの深酒は避けました。 避けて良かったです・・・ はい。 素晴らしいものを見せて頂きました。 「あれ、 Tarlin はフィギュアに興味が無かったのでは?」 確かに、新採点法になってからの 「跳んだり、回ったり。 技見せてや〜。」 のフィギュアには、ちょっと食傷気味でした。しかし、荒川静香のスケーティングは、決して「跳んだり、回ったり」だけではありませんした。純粋に美しさを感じました。 それまでの選手が、まるでタクシーメータのように「カチッ、カチッ」と音が聞こえてきそうな点数を積み重ねるかのような演技を行うのに対して、荒川さんの滑りは、音楽と連続的な、しなやかな一体性があり、一つの夢物語を見ているようでした。
 また、今日、男子フィギュアのフリーの再放送を見ましたが、ロード・オブ・ザ・ダンスの音楽に乗って滑るフランスのブライアン・ジュベールは、まるで、往年のキャンデローロを見ているような斬新な演技で、私好みの滑りでした。これはフランスの伝統なのでしょうか。 こんなかんだで、先日の、フィギュアは面白くない的な発言については反省をいたしました。謹んで撤回させて頂きたく思います。
 もう、オリンピックも終盤ですが、素敵な感動をありがとうございました。

 トリノ五輪が閉幕しました。今日から再び福井へ一泊出張のTarlinと、朝の支度をしながら、テレビで閉会式を眺めていました。「謝肉祭」をテーマに、仮面を付けた人々がパレードや大道芸を繰り広げ、伝統を感じさせる華やかかつ洒落た演出。統一感もあり、何から何までごった煮のような開会式より、ずっとよかったと思います。
 さて、トリノ五輪の真っ最中、2月11・12日、NHKで大変気になる、そして恐い番組をやっていました。『気候大異変』、昨年見た米ディスカバリー製作『未来の嵐を予想する』と同じく、温暖化の影響を受けた地球の100年後の気候を、地球シミュレータで計算・予測するという内容でした。
 結果は、ディスカバリーの『未来の嵐』と同じ。地球の気候は極端化し、降水量が増える地域と減る地域に分かれます。日本では、北海道、四国の山間部、九州で増加、本州の大部分は減少します。自然災害、特に台風は巨大化、降水量が減る本州も、小雨が続くかと思えばカトリーナ並みの台風に襲われまわれます。東京(本州)は奄美大島のような気候になり、九州と沖縄は熱帯シマ蚊が繁殖、出血熱の伝染地域になります。果樹の栽培地は、りんごは北海道、みかんは東北、北陸にそれぞれ移動。米は北海道では10〜15%の増産ですが、それ以外では10〜15%の減産。本州での田植えは7月になるとか。農家は作物替えで経済的打撃を受け、中国や米国も干ばつによる不作が想定され輸入に頼れず、食料不足が予想されます。さらに恐ろしいのは、アマゾンの熱帯雨林の3分の2が砂漠化してしまうこと。現在、二酸化炭素を大量に吸収している森林を広範囲に失い、温暖化はさらに加速します。う〜む、これはかなり覚悟しておいたほうが良さそうです(-_-;。
 気をつけねばならないのは、この計算結果は、二酸化炭素の増え方を、かなり控えめな量に仮定していること。100年後の二酸化炭素濃度を2倍に、地球の平均気温の上昇を4.2℃という想定ですが、これはあくまで京都議定書の削減目標を達成した場合の数値。実際の増加率は、現時点でこれを遥かに上回っており、ここでの予測結果は、効果的な対策が取られなければ、100年と経たないうちに(70年後か50年後かは分かりませんが)もっと早く訪れる可能性があります。今すぐ二酸化炭素の排出量をゼロにしても温暖化は進行し、現在の上昇分0.6℃が元の水準に下がるまで200年かかるそうです。被害を出来るだけ少なくするには、100年後平均気温の上昇を2℃に抑え、そのためには二酸化炭素の排出量を現在の半分にする必要があるとか。京都議定書、チームマイナス6では到底おいつきません(-_-;。
 自分の老境には、奄美大島のような気候で、伝染病をもつ蚊と大型台風におびえながら、食料不足のために庭には一面に野菜やさつま芋を植えて暮らしているのかもしれません。う〜ん、災害は仕方ないとして、今くらいの気候で暮らしたければ、北陸か信州か東北に、食物を確保したければ北海道に移住したほうがよいのでしょうか?
 何はともあれ、冬期五輪を開催できる地域も、ぐっと狭まりそうです。スケートなど屋内競技はともかく、アルペン・スキーが出来ないといけないので、山岳を有する高緯度地方、カナダとノルウェーの持ち回り?20年以内に氷河がなくなると言われているヨーロッパアルプスは微妙?日本なら北海道で出来るかどうか?いずれの土地も、永久凍土や氷河の溶解などで、安全への心配はないかどうか?う〜ん、こうなると、選手を出す地域も層も限られてきそうです。少しでも長く冬期五輪が楽しめるよう、家の待機電力を減らすべくパソコンのコンセントを抜きながら、祈るばかりです。

2006年2月27日(月) 温暖化と冬季五輪の将来 

 トリノ五輪が開幕してから、日々楽しませてくれたフィギュアスケート。25日はBSで再放送があり、途中、総合の荒川選手の特集も挟んで、27日夜中のエキシビションまで一気に見てしまいました。美しい滑り、軽やかな滑り、力強い滑り、華やかな滑り、端正な滑り、また選手一人一人の人生にまつわるエピソード。個性あふれる様々な演技に、たっぷりといいものを見せてもらった2週間でした。以下、特に思ったことを・・・

1. ロシア勢の芸術性
 アイスダンス優勝のナフカ&カスタマロフ、ペア優勝のトットミアニーナ &マリニン、圧倒的な美しさです。特に、ペアのトットミアニーナ&マリニンは、続出する大技も優雅な身のこなしに見事に組み込まれ、「技」を感じさせない流麗さ。とにかく、ロシアのフィギュアは美しい。男子シングルのプルシェンコ、女子シングルのスルツカヤ。皆、技は高く、情感あふれています。そういえば、アメリカのサーシャ・コーエンも、母親がロシアの兄妹民族ともいえるウクライナ人とか。アフリカ系の人々が陸上に向いているように、バレーやフィギュアのような柔軟系舞踊は、東スラブ族の遺伝子に組み込まれているのでしょうか。
 それにしてもロシアの選手は、苦労しています。スルツカヤは、心臓に持病を抱えながら、夫と両親の生活を支えています。プルシェンコは、少年時代、経済的理由から一家が離ればなれに暮らさねばならなず、見かねたコーチが母親を呼び寄せて二人のためにアパートの家賃を払っていた時期があったとか。経済状態が不安定なロシア。生活そのものの困難から引き出される生きる力、そこから立ち上る芸術心を、フィギュアにも感じます。

2. 男子シングル・スケーターの個性
 どうしてこんなに個性的な人々が揃っているのでしょう。もはや人間ウォッチング的面白さです。神か何かが取り憑いたように振り切れるプルシェンコ、乙女も真っ青の優雅な麗しさのウィアー、笑顔から爽やかで甘い風が吹いてくるような好青年バトル、フランス人なのに時に背中に「007」を背負い、時にアイリッシュ・ダンスを踊るブリテン・マニア(?)ジュベール、男性的な力強い滑りに一昔前の柔道日本選手のような表彰台での男泣きがかえって新鮮なランビエール、ナルシズム的表現力たっぷりの高橋君… Tarlinには容姿に喜んでいるように書かれましたが、顔よりも何よりも、個性が面白いのです、個性が。仮に女子シングルと比べてください。女子が自己表現、強くても自己顕示なら、男子は自己顕示、それを超えて自己陶酔…、いえ、失礼しました、表現意欲あふれる一風変わった、いえ、もとい、個性的な選手が揃っています。楽しいなあ。

3. 表現力・造形力・強勢力 
 金メダルをとった荒川選手。女子フィギュアの戦いは、他を気にせず、自分に集中し切れた者が残ったように思えました。いずれにせよ、本当に美しい滑りでした。荒川選手の滑りを見ていて惹きつけられるのは、何より形姿の美しさ。長身で細身の体から長くすらりと伸びた四肢を生かし、手先まで張りつめたような端正なスパイラル。その厳粛なまでに美しい形姿からは、己を律する透徹した心さえ伝わってきます。「形」そのものが醸し出す、外的および内的な美しさ。荒川選手の美をかたどる力。それは、感情を表現するいわゆる「表現力」とは一線を画する、いわば「造形力」と呼べるかもしれません。
 こう考えると、プルシェンコやスルツカヤ、村主、高橋は情感の出る「表現力」型、柔軟な姿が美しいサーシャ・コーエンも荒川同様、「造形力」型の選手かもしれません。では、ランビエールや新鋭のエミリー・ヒューズ、往年の伊藤みどりのようなストレートなパワーが魅力の選手は、う〜ん、「強勢力」型?お後がよろしいようで・・・

2006年2月26日(日) フィギュアに思う