幕末、京都の民衆から最も愛されたにもかかわらず、一夜にして、その京から追われ朝敵となり、さらには欧米4カ国並びに幕府軍と交戦し危殆に瀕した長州。 しかし、その逆境の中から不死鳥の如く蘇り、維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いた長州。 この歴史の荒波にもまれた藩都「萩」を訪ねました。

 上の写真は田床山から見た萩の町です。山、海、川、豊かな自然と城下町文化が混然としたとても気品のある町です。そして、今なお、古い町のたたずまいを残しており、通りの角から血気盛んな尊皇攘夷の志士達が今にも走り出てきそうな雰囲気があります。

 それでは、そんな愛すべき萩の町についてご紹介していきたいと思います。

【堀内の土塀】
堀内は、その名の通り、「お堀」の内側にあって、最上級武士の屋敷が建ち並んでいたところです。少し道を入ると、そこはもう、風格のある土塀がつづく異空間。時間さえもゆっくりと流れているような感じがします。

【口羽家住宅】
家老に次ぐ上級武士であった口羽家の表門です。なまこ壁が目に眩しい重厚な造りの門です。

【堀内の鍵曲】
「鍵曲」と書いて、「かいまがり」と呼びます。 昔、城下に敵兵が攻め入ってきた際、鍵のように曲げた道に誘い込み、敵の目を惑わすことを目的としていたようです。ここは舗装もされておらず本当にいつまで経っても変わらない風景を残しているところです。

【菊屋横丁】
萩城下町の御用商人菊屋家のなまこ壁です。長州藩きっての商家だけあって、その壁は延々と続きます。 萩から帰って知ったのですが、一般に公開されているのは一部分だけで、広大な庭園が奥に広がっているそうです。

【菊屋横丁 高杉晋作生家】
菊屋横丁と言えば、なんと言っても高杉晋作の生家。 Erill は司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んでいて高杉晋作に対するにわか知識が相当な域に達しており、様々な蘊蓄をたれてくれました。

【江戸屋横丁 木戸孝允生家】
木戸孝允というよりも桂小五郎の方がしっくりきますね。 その生家は非常に大きな屋敷でした。 当時の上級士族の暮らしぶりが偲ばれます。 建物の中は、記念館のようになっていて、当時の写真などが展示してあります。

【指月 萩城】
長州藩の本城、萩城の跡です。現在は城跡だけが残っていますが、当時は、右の模型にあるように立派な天守を構えていたのですね。

城下町として他に類をみない佇まいを残した萩の町並みについて写真を中心に紹介します。

【明倫館跡 明倫小学校本館】
長州藩の藩校「明倫館」の跡地に建っている明倫小学校です。昭和10年に建築されたものです。折しも、私たちが行った日は運動会の真っ最中で。その競技の中にも維新をテーマとしたものがありました。 萩という町の心意気を感じた一瞬でした。

Erill がその純粋な生き方に共感した吉田松陰の足跡を訪ねてみました。

 Tarlin が穏和な保守主義者なのに対して、どちらかというと反体制派の革命児 Erill は、久坂玄瑞(蛤御門の戦にて闘死)、高杉晋作(幕府第二次長州征伐末期に病死)、吉田稔麿(池田屋事件にて斬死) ら数々の倒幕維新の志士を生み出した思想に触れるべく、その師である吉田松陰を訪ねるということは、この旅の重要なテーマの一つでした。

 そこで、吉田松陰の足跡を一つ一つ辿ってみましたので、ご紹介いたします。

 まず、吉田松陰と言えば「松下村塾」です。 松下村塾は城下町の外れにあります。家格から
すると、もっと城に近いところに住むべき家であったようですが、大火で焼け出されて以来、農作業
(当時、武士とは言え、必ずしも裕福ではなく自家用の野菜などは自ら耕作していたそうです。)にも便利な、現在のJR東萩付近に居を構えたようです。 松下村塾のあった所は、現在は松陰神社として、その建物と共に保護されています。
 しかし、松下村塾が城下中心部ではなく、この外れにあったということが、伊藤博文や山県有朋などの半農士族までが塾生となり、後の新政府の重鎮ならしめたことは歴史の皮肉のように思えます。

これが、松下村塾です。 松下村塾自体の開祖は吉田松陰その人ではなく、叔父の玉木文之進で、吉田松陰は2代目の塾頭ということになります。そして、同じ敷地内には松蔭の家があります。この家は非常に広いのですが、密航の企てに失敗した後の謹慎中は幽囚室と呼ばれる3畳一間に起居したそうです。

松陰神社から上手に歩いていくと、途中に玉木文之進の旧居があります。玉木文之進は、松蔭の叔父で、少年期の松陰に厳しいスパルタ教育を施した人物です。知る人ぞ知る「松下村塾開祖」とは言え、殆どの人が知らないため、訪れる人もなく、傷みも激しく雨樋などは壊れて、うらぶれていました。萩市の教育委員会も人気の無いところにはお金かけないのね。 (T T)

吉田松陰の墓所のすぐ近くに、火事で焼け出された後に住んでいた家の跡地があります。写真では分かりにくいと思いますが、わずか二間(10坪も無いようなところでした)に8人が暮らしていたそうです。

墓所のある高台に、松蔭を慕った金子重之輔と寄り添う松蔭の銅像が萩の町を見下ろすように建っています。

幕末から明治維新まで、その時代を駆け抜けた長州人として対照的な生き方をした桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・伊藤博文について書きます。

幕末から明治にかけて、同志でありながら対照的な生き方をした桂小五郎、高杉晋作、そして伊藤博文。 その人物の背景を感じるべく、萩の町を訪ね歩いてみました。

桂小五郎は、長州の指導者的立場で明治新政府でも参議を歴任するなど政府の重鎮でしたが、新政府発足後は必ずしも時代を引っ張っていくことができませんでした。伊藤博文などは足軽の身分であったのを桂小五郎に引き立てられたにもかかわらず、晩年には、政府内における桂小五郎の立場に手を焼いて、だんだんと疎遠になったと言われています。しかし、それは幕末時代に志士活動により多くの仲間を失ってきた心の傷と、その大きな代償の上にできた政府の現実の姿への失望が彼をしてそうさせたように思えます。薩摩の西郷とともに、薩長のもう片方の雄、桂小五郎もまた、幕府を倒した時点で、その役目を終えたのかもしれません。

苦悩を内に秘め続けた貴公子

萩城下町にある生家に展示されている幼少時代の習字です。習字のことはよく分かりませんが、性格と同様、その字体にどこか線の細さを感じます。

小五郎は京都での志士活動を行っていた時代の馴染みの芸者であった幾松と結婚しました。新選組に追われた時も何度も幾松に助けてもらって、同志のように感じていたのでしょうか。

生き方に美を求めた天性の革命家

吉田松陰門下では久坂玄瑞と双璧をなしていた高杉は、軍略の天才でした。混沌とした時代を捨て身で回転させたのは、土佐の坂本竜馬と長州の高杉晋作であると思います。そして坂本竜馬と同じく、決して名誉や栄華を求めなかったのが高杉晋作でした。ただ、坂本竜馬とは異なり高杉は常に、その行動に美を求めていたように思います。有名な言葉に、「人は、艱難を共にすべきも、富貴は共にすべからず」とあるように、物事は成就した時点から腐敗が始まるのを知っていたのかもしれません。「濁を濁として受け容れられない」そんな人物だったのだと思います。 

また、高杉晋作は詩人であり、多くの詩を残しています。生家にもその詩の一つが石碑として刻まれています。

   西へ行く人を慕ひて東行く
         わが心をば神や知るらむ

時代の波を巧みに乗り切った新型官僚

長州の足軽の子として生まれながらも、吉田松陰門下生となり、時流に乗るかのように高杉晋作・井上馨と交流を深めて、人生の大博打である功山寺決起に参加することにより、その存在を決定づけました。また、木戸孝允に取り上げられ明治新政府に奉職してからは、木戸とは不仲の大久保利通に近づき、政府の要人として初代内閣総理大臣にまでなりました。このように書くと、単に運に恵まれていただけのようにも思えますが、革命の後始末をするという点で時代が求めた一つの人材だったようにも思えます。 生まれの身分が高くなかったからこそ旧士族社会との決別に苦悩することもなく真っ直ぐに新しい時代を牽引していくことができたのでしょう。 

松陰神社の近くに伊藤博文の青年時代を過ごした旧宅が保存されています。

その隣に、東京で使用していた東京別邸の三分の一が移築展示されています。 白髪の品の良さそうなボランティアガイドのお祖母さんが、この屋敷の素晴らしさを懇切丁寧に説明して下さいました。その一端をご紹介します。 

この建物は、1906年に時の天皇陛下より功績のあった伊藤博文に与えられた御下賜金で建造されたとのことです。 その後は、ニコンのクラブハウスとして使用されていたらしいのですが、傷みが激しくなり維持できなくなったため平成10年に取り壊されることになりました。何故、大企業ともあろうものが維持できないのか? この理由は後で分かりますが、それはさておき、 取り壊す前に、萩市に「要りませんか?」との打診があって、時の市長は「願っても無い話」と飛びついたそうです。 ですが、いざ移築するとなると、その移築費用もさることながら、この広大な建物をどこに設置するのかという問題が持ち上がりました。 そこで、一時はあきらめかけたそうなのですが、萩市の篤志家がちょうど、「それならば・・・」ということで、伊藤博文旧宅の隣の土地を萩市に寄贈されたため、全体の3分の1だけですが、はるばる東京より移築することが出来たとのことです。 このあたりも萩っ子の心意気ですね。

ところでこの建物、当時一流の宮大工、伊藤満作氏に「費用を惜しまず最高のものを」という肝いりで建造されたものだけあって、その造作は素晴らしいものでした。

畳5畳分の杉の一枚板を用いた廊下の天井です。

格式の高い格天井に粋な欄間です。このような欄間にしたのは格天井が次の部屋に渡って見通せるようにするためだそうです。

いつの日か、天皇陛下が御下行されるかもしれないということで設けられた玉座の間です。

このような造りが、至る所になされており、もう現在となっては手に入らない部材も多く、確かに維持していくことは並大抵ではありませんね。

しかし、あれですね。 茅葺きの粗末な家から、現在では完璧なメンテナンスも不可能な大邸宅に住まうようになった伊藤博文、人の運命なんて分からないものですね。

萩の町を旅したときのメモです。

萩の町をゆっくりと楽しむには、なんと行っても徒歩です。 しかし、時には少し離れた場所へ早く行きたいこともあります。その時に役に立つのが、「まぁーるバス」という赤色の可愛らしい循環バスです。区間内であれば100円でどこへでも行けます。 このバス、2系統あり、西回りコースは「晋作くん」、東回りコースは「松蔭先生」というユニークなネーミングがされています。地元の方も大勢利用されていて、その地の会話も楽しめるところがお奨めです。

○ 晋作くんと松蔭先生

○ 笠山遙かなり

最初の計画では、笠山へも行くつもりだったのですが、結局時間がなくて、自動車で近くまで行っただけでした。 萩の町は、本当に時間を忘れて歩いてしまいます。 藍場川なんかも見たかったし、また今度機会を見つけて行きたいと思います。

○ 無念、萩博物館

萩は、今年2004年、開府400年と言うことで、それに合わせて萩博物館という大きな博物館ができるとのことでした。ただ、残念なことに開館が11月という事で、私たちが行ったときには、今まさに作っておられました。

○ 萩焼のぬくもり

萩と言えば「萩焼」。 我が家は、萩焼き大ファン一家で、 お湯のみやお猪口(Tarlin only)などは萩焼を愛用しています。何と言っても手に持ったときのぬくもりは最高のものがあります。ということで、この旅では何にでもあいそうなお皿を買いました。