2004年5月
2004年5月

 9月に入って三日目。すっかり涼しくなり、季節が秋へと入りゆくのを感じます。
 Erill、以前は、秋の始めの頃はいつもいたたまれないもの悲しさにとらわれ、「淋しいこそもの狂おしけれ」という感情に襲われていました。生命の最盛期である夏から終息期である秋へ向かう季節の変化を、生物としての本能が察知するのでしょうか。心というよりも、体の奥深くから無条件に起こってくる、胸を絞るような淋しさに、毎年のようにしばらくさいなまれるのです。そして、季節が完全に移り、彼岸花が咲き終わり、稲穂が色づき始め、実りの秋に入る10月頃になると、自然とこの淋しさは治まり、こんどは、秋が来た歓びから、朗らかな気分が自然と涌いてきます。
 が、デンマークで暮らした3年間に体内の季節時計が変化したのか、それとも単に歳をとったのか、数年前から、秋の入り口が来ても以前のような激しい感傷にとらわれることはなくなりました。これはこれで快適なのですが、自分の体内の自然への反応が薄れたような気がして、何だか惜しくもあります。
 それでも、この季節になるとやはりそこはかとなく淋しさを覚えます。空気が澄み、あらゆる感覚が軽やかになっていく秋。透明なものほどはかなさを帯び、存在への問いを促すように、感性に染み込むもの。
 自然の森羅万象が、生物の生理を通じて、人間の精神を研ぎ澄ましてゆく。秋は、自然と人の内なる思考とのつながりを、一年で最も敏感に感じる季節かもしれません。

2004年9月3日(金) 秋の入り口

2004年9月5日(日) なんと、本日の読売新聞に・・・

 今日は、ゆっくり朝寝坊して、遅めの朝ご飯を食べて、スーパーへ買い物に行って、最近、我が家では幕末ブームなこともあり、古い古いビデオテープを取り出してきて「奇兵隊」なんぞを見たりしながら、まぁ、なんとも、静かで平和な平凡な1日を過ごしたのですが、一つだけ笑えるものを発見してしまいました。

 それは、本日の読売新聞の政治面の「政思万考」という政治コラム欄です。「むっ、又次郎と純一郎?」 「はて、どこかで聞いたようなフレーズ・・・」 そうなんです。我々の日記の8月19日の題材をパクッた ・・・いえ、失礼、もとい、我々の日記の題材を補足して下さるかのようなありがたい記事が掲載されていたのです。
 我々の日記は、ライオン丸とそのじいちゃんの間にどのような確執が? という問いかけで終わっていましたが、その謎を解き明かすのに有力な情報が載っているのです。 又次郎じいちゃんは、逓信大臣の頃(まだ戦前ですよ)に「電信電話民営化」に挑んでいたと言うのです。電電公社が今のNTTになったのは、もう過去の出来事ですが、といっても、不詳Tarlinが十分に物心ついていた時のことです。それなのに、そんな昔から・・・  もちろん、時の大蔵省の大反抗にあって志はとげられなかったようなのですが。
 察するに、小泉首相(あまり、ライオン丸、ライオン丸等と言って、政府機関の手でこの身を極秘裏に消されても困りますから・・・)が郵政民営化に賭ける情熱は偏に

「敬愛するじいちゃんの仇討ち」

 きっと、小泉家では、幼少の頃から「男子たるもの。一国の通信業務を変革すべし 喝っ」 と教育してきて、純一郎少年の幼心に秘められた多年にわたる呪縛が、今、解き放たれようとしているのです。 もしかすると小泉首相は、郵政事業が完全に民営化されてはじめて、おじいちゃんに顔向けができるのかもしれません。 実は、感動秘話だったのですね。(;_;)

 Erill、今年二回目の夏風邪(秋風邪?)を引きました。一週間前から、喉の痛みと体のだるさがとれません。前に引いたのは、つい3週間前。この時は、お盆の四国行きを控え、用心に用心を重ねたこともあり、すぐ治ったのですが、今度は大した症状でないのに、一向にすっきりしません。
 Erill、体質的に風邪を引きやすく、特にここ2、3年は、10月から3月まで,、毎月一回は風邪を引いているような感じになってしまっています。毎年涼しくなって、秋のいい季節になると、今年こそは風邪を押さえ込む!と思うのですが、秋の初っぱなから引いてしまっては、今年の風邪との攻防は、いきなり初戦敗退(?)でしょうか。でも、頑張るぞ!

2004年9月6日(月) 2回目の夏(秋?)風邪

 朝8時半頃、地震がありました。日曜日の夜に近畿地方南部で起こった二回の地震の余震でしょうか。日曜日ほどではありませんでしたが、2階にいたせいもあり、そこそこぐらぐらと揺れました。
 地震は、やはり怖いものです。今朝は、前述の通り風邪気味で布団の中だったのでまあまあ落ち着いていたのですが、日曜日夜7時の地震の時は、ちょうど夕食の支度で火を使っていたので、慌てました。「チキンのリンゴソース掛け」なるものを作るべく、フライパンにブランデーを振り入れ、フランベの揺らめく青い炎が静まって後、数分後・・・ソースと弱火で煮詰めている最中に、揺れが始まりました。動転していると、Tarlinに「火は?」と言われ、慌ててガスの火を止めました。我ながら、もっと早く反応せねば、ダメですね(-_-; 
 結局、何もなかったのですが、揺れが来たのがフランベの最中だったら、と思うと、冷や汗が出ます。煮きりみりんやフランベをする料理は、地震が来そうなタイミングではしてはいけないと、実感しました・・・とはいえ、予測のしようがないので、せめて余震が来そうな間は、避ける程度しか出来ませんが。
 九州・中国・四国が、また台風で大変な様子です。台風の上陸は、今年に入ってもう7回目とか。例年なら、台風シーズンはこれから。いったい、秋の終わりまでにあと何回来るのでしょうか。地球温暖化で、これからの台風はどんどん大型化していくと予測されているようです。心配です、と書きながら、パソコンを起ち上げてエネルギーを消費している自分。
 たとえ個人レベルで利便性を犠牲に出来ても、問題は経済。たとえば、公共交通機関を充実させて、個人の自動車保有台数を削減したとして、自動車産業に打撃が出、経済が悪化します。ここで何か新しい、環境に優しい産業を創出出来ればいいですが、無策のままに経済が悪化すると、社会不安が起こり、ただでさえ不穏な国際情勢に悪影響がでる・・・ そうならないために、世の賢い人々は、どんな策を練っているのだろう・・・ ふと、そんな書生論めいたことを考えてしまう、天変地異続きの、蒸し暑い初秋の夜です。

2004年9月7日(火) 地震と台風

 今年1月に買って一年もならないFAX電話が故障してしまいました。お洒落なデザインに、カバーを開けると、大きなカラー液晶の、綺麗な画面。メーカーのキャノンは、カメラやプリンタでは定評があるけど、FAXは今一マイナーなので、正直すこし不安だったのですが、Tarlinが気に入ってどうしてもというので、購入しました。使ってみると、画面は見やすいし、操作も分かりやすく、なかなかの使用感。Erillもなかなか気に入りました。ところが・・・
 最初の予兆は、5月。それまでは調子が良かったのに、ある時、本体カバーを開けると、待機画面が出るはずの液晶がブラックホールのように真っ暗。慌ててマニュアルをくると、「いったん電源を落として、10分後再び電源を入れ、リセットする」ようにとあります。その通りにすると、綺麗に待機画面が出て、無事に復活しました。しかし、その復活は、完全ではなかったのです。
 それは、地震のあった先日の日曜日の夜。Tarlinが何気なくFAXのカバーを開けると、また画面が真っ暗。思わず、「地震のせい?」と訳の分からぬことを考えましたが、先例を思い出し、10分間リセットを敢行、無事成功しました。
 ところが次の月曜の夜、今度は待機画面いっぱいに赤、緑、青の縦縞が走っているではありませんか。10分間リセットをしても、カラフルな3色ラインは消えません。これは、つぶれる予兆では・・・ 次の日、メーカーのサポートに電話をしたら、あっさり無料で新品交換してくれることになりました。
 翌日の水曜日、早々と新しいFAXが届きました。Erill、「これで、大丈夫♪」と、電源を入れました。ところが、軽快な音楽とともにデモ画面が終わると、画面が真っ暗なブラックホールになってしまいます。「???前は、確か、ここから次のセットアップ手順が画面に出たような?」 変だなと思いながら、試しにマニュアルに従ってメニューキーを押し、次の操作である時刻設定を試みました。ところが、設定を終えたとたん、画面が真っ暗に落ちてしまいます。ここで、本来なら待機画面に切り替わり、設定した通りの時刻が表示されるはずなのに〜。念のため10分リセットをして、何度やっても事態は変わらず。何かキーを押すと画面が点くけど、操作が終わると真っ暗けっけ、の繰り返し。これはやっぱりおかしいと、再びサポートに電話しました。
 サポートは、平謝りでした・・・(当然)。 それにしても、新品交換でサポートから届いた商品が、欠陥品なんて(**)。同じキャノンのデジカメを使っていますが、こちらはとてもスグレモノなのに・・・ 一流メーカーでも、得意分野の製品以外は、弱いものですね。はっきり言って、こんなに不具合が多いのでは、サポートの人も可哀想と思ってしまいます。
 サポートのお姉さん、「今度は動作確認したものを送らせて頂きます。」 さすがに、今日届いた2回目の新品交換品は、今のところ間違いなく動いています。でも、本当に長い目で見て大丈夫なのかなあ・・・ 電話帳にあまたのデータを登録し直すのも、とっても厄介。
 やはり、その分野で定評のあるメーカーの製品を買うにしくはなし、との教訓を得たのでありました。

2004年9月10日(金) FAX故障

 今日は、夕方からErillの研究会関係の友人の披露宴。悩んだのは、服装。招待状に「平服で」と書いてあるので、インターネットで調べたら、「正礼装ではなく、略礼装で。洋服なら、スーツかワンピース。和服ならつけさげ、無地、小紋・・・」と、結構幅広い解釈。いっそ着物で、と思いましたが、会場内はともかく、外の気温はそれにはまだ暑いし。結局、悩んだあげく、アクセサリーだけを正装のレベルにして、ローラ・アシュレイの麻地のドレスを着ていくことにしました。
 場所は、京都は知恩院の近くの大正時代に建てられた、登録有形文化財の和洋折衷の館(やかた)。披露宴会場も、黒い柱がシックな、和風と洋風の雰囲気がほどよく折り合わされ、古めかしく、好い雰囲気です。
 Erillは、今夕は新郎側の招待客。新婦さんとは、初めてご挨拶させて頂きましたが、幼稚園の先生らしく、明るい、溌剌としたキュートな女性。ナイーブな文学青年の新郎さんとは、好対照かつ絶妙の組み合わせという感じでした。
 さて、披露宴ですが、これが最初から最後まで、徹頭徹尾こだわった「手作り披露宴」。何でも、招待状やプログラム、席札、ウェルカム・ベアは新婦さんの手作り、新婦さんが身に帯びているアクセサリーも新婦さんのご友人の手作り。凄いなあ。自分の時は、準備だけで精一杯で、とてもこんなところまで手が回らないし、第一、そんな器用さはありません。
 進行も、出来うる限り形式通りの内容から一工夫こらして、自分たちで作り上げたというアットホーム感とオリジナリティを追求していました。新郎新婦の入退場の音楽は、新婦さんのお友達のピアノ演奏。主賓のスピーチの後は、各テーブルから一人ずつ抜き打ちで選んでショート・スピーチ、新婦さんのご友人の幼稚園の先生や、ガールスカウトの方々によるクイズや寸劇。
 そして、花嫁さんの感謝の挨拶と、ご両親への花束贈呈。ここは、大抵の場合、涙、涙の場面になるのですが(TarlinとErillの時もそうでした)、このお二人は、実に明るく、笑顔にあふれておりました。まず、両家のお母さんが挨拶をし(しっかり笑いをとっておられました)、花嫁さんの非常に明るい、ありがとうの挨拶。それから、花束贈呈。本当に、よく考えたなあ、という感じです。本人もご両親も、実に幸せそうで、かえって印象的でした。
 最後には、卓上の装花を貰えるくじ引きもあって、Erillもしっかり貰ってしまいました(これが、一番嬉しかった!?)。
 そして、極めつけは、最後の最後。宴が引けて、お見送りに並んだ新郎新婦とご両親の方々に挨拶をして歩いていくと、出口の手前で、ビデオカメラを手にした新婦の友人が、「最後に、お二人にご挨拶の一言を残して下さい!」。Erill、「えっ?」とびびりながらも、途中までは決まったのですが、何か気の利いたことを言おうとするあまり、思わずしかめっ面になってしまいました。この日の新郎新婦のお二人様、すみません、締めくくりの言葉の手前で、顔がこわばっているのは、この為にござります m(_ _)m
 と言うわけで、お二人の人柄と、周りの人々とのつながりがよく顕れた、賑やかで楽しい、幸せいっぱいの、印象的な披露宴でした。ひるがえって、自分たちの披露宴も思い出して、新鮮な気持ちを抱いた次第。こういう機会って、いつ出てもいいものですね。

2004年9月11日(土) オリジナル披露宴

 DHL便が来ました。DHLというと、会社に来そうなものですが、個人宅にも来るんだな、はて?などととぼけたことを思いながら、宛名を見るとErill宛。デンマークの銀行から、クレジット・カードを送ってきたのです。
 留学時代に現地の銀行に口座を開いたのですが、1997年の滞在開始時のレートは1デンマーク・クローネ=21円もしたのに、1999年帰国時のレートは1クローネ=16円程度。デンマークはEU加盟国ながらユーロには参加していないのですが、元々ドイツ・マルクと連動していたため、通貨統合以来、対円相場が下がってしまったのです。結局、とてもこの不利なレートで日本円に両替する気になれず、口座を保持したまま、クレジット・カードを作って、海外旅行や、海外から通販で物を買う時の支払いに当てることにしました。
 Erill、どうも為替相場とは相性が悪いようで、海外に行く時は円安だったり、現地で働いて現地通貨を造ったときには、円高だったり。いつかレートが有利になったら口座を解約して、日本円に変えようと思っていますが、ユーロへの通貨統合以前のクローネ高ともいえる水準には、なかなか戻らないようです。(というか、もう無理なのかも
(-_-) 。).
 さて、今回のDHL便で送って来たのは、新しいクレジット・カード。もともとは写真入りクレジットカードだったのですが、それをセキュリティ強化の為にチップ入りに変更とかで、カード番号まで変わってしまいました。当然、古いカードは失効になるので、新しいカードを有効にするため、デンマークの銀行まで国際電話をかけて、カード番号と、CPRナンバーといういわばデンマークの住民番号をダイヤルして認証させます。
 このCPRナンバー、デンマークに暮らすデンマーク人および外国人全てに付与され、たとえ外国人といえど一生変わることがありません。もしErillが何らかの事情でデンマークに再び長期滞在することになると、前回と同じ住民番号で住民登録されるのです。
 そして、このCPRナンバー、日本の住基ネットの住民票コードのような中途半端なものではありません。住民登録が終わると、CPRナンバーが記載された黄色いプラスチックのカードが役所から送られてきますが、これがそのまま「医療保険証」兼「身分証明書」になるのです。病院に行くのも、銀行口座を開くのも、図書館で本を借りるのも、これ一つで全部OK。はっきり言って、とっても合理的です。
 「国民総背番号制」で一部心配されているような行き過ぎた個人管理、という印象もなかったし、Erillのように車の運転免許を持っておらず、身分証の呈示を求められるたびにパスポートやら保健所やらを持ち出さねばならない煩わしさを日本で味わっている輩には、とっても便利で、ちょっとうらやましくなる制度でした。でも、日本でこれを実施するとしたら、情報漏洩のないように、もっと管理をしっかりしてもらわないとだめですが・・・
 保険証は場合によっては使えないし、身分証明のために運転免許やパスポートを更新する、なんてことのないように、手数料のかからない公的身分証明書があれば、と思うのは私だけでしょうか。

2004年9月14日(火) DHL個人宅に来たる

 秋の3連休初日は、Tarlin母様の4ヶ月遅れの母の日+半月早い誕生日ということで、梅田で『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を見た後、居酒屋で食事会でした。こう書くと、TarlinとErillの趣味そのもののように聞こえますが、どちらもまぎれもなく本日の主賓からのリクエストです。
 まず、ハリー・ポッターで初めてファンタジーの面白さに触れ、同シリーズの愛読者になったTarlin母様のリクエストで、梅田ピカデリーで『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を鑑賞。6月26日の公開日からほぼ3ヶ月目ですが、映画館はいっぱい。前2作からストーリーがぶつ切りで原作を読んでいないとついていけないことが想定できたので、原作未読のTarlinの為にパンフレットを購入。主役3人の写真集とみまがうばかりの構成で、それはそれでいいのですが、問題の粗筋はどこにもあらず・・・ この映画は、原作を読んでから見ることを想定していることが、ますますはっきりしました。
 原作を読んでいるTarlin母様とErilにとっては、前2作以上によく出来た、とても素敵な映画でした。スコットランドの自然美を最大限に生かした雄大な映像。これこそファンタジ−!と言いたくなるような幻想的な雰囲気。こんなハリー・ポッター映画を待っていた、という感じでした。ストーリーもとてもよくまとめあげていましたが、それでも、やはり肝心要のところが説明不足・・・ 終わってから、映画半ばで既についていけなくなっていたTarlinに、分からない部分を説明する事態となりました。
 次に、今まで飲み会なるものに出たことがなく、話に聞く居酒屋とやらに一度行ってみたいというTarlin母様のたっての願い(?)で、堂山の居酒屋『弁天別館』へ。北海道の海鮮料理が美味しいお店。個室を予約してあったので、3人だけでゆったり旬を迎えた北海道の食材に舌鼓を打つことが出来ました。肝心のお酒ですが、飲んでいるのはもっぱらTarlinとErill。主賓のTarlin母様は、アルコールに弱く、ウーロン茶。だからこそ、料理の美味しいお店にしたのですが、個室だったことも手伝って、居酒屋というよりは、小料理屋に来た・・・ という方が正しいような雰囲気だったかも・・・。う〜ん。
 まあ、主賓が満足してくれたので、これでよかったのでしょうか。Erillもハリポタ映画を大画面で堪能出来て、楽しい一日でした。

2004年9月18日(土) ハリー・ポッターと北海の幸

 『竜馬がゆく』を終えて、同じ司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読んでいます。長州の吉田松陰と高杉晋作が主人公。「おもしろうこともなき世を面白く」は、高杉晋作の辞世の句だったのですね。天才的革命家は、また並はずれた文才の持ち主だったようです。司馬遼太郎によると、情熱を要する革命には、詩人的感性がつきものとか。高杉晋作は、さしずめその典型なのでしょう。危険と魅力が相伴っている見本のようでもあります。進取の気性に富んだ高杉晋作は、また時代を構想できる視野と思考力を持っていたそうです。これまた、魅力的です。
 さて、最近にわか幕末ブームの我が家、先月は『竜馬がゆく』を片手に土佐を訪れましたが、23日から今度は長州の城下町、萩と津和野を訪れることにしました。Tarlinは、24日は有休を取って四連休!23日から25日まで二泊三日で考えていましたが、週間予報ではまずまずの天気ようなので、26日まで延長して、青海島や角島のほうも廻ろうと計画中です。
 問題は宿。津和野は今回二回目のTarlinが前回行って気に入ったペンションに、萩はインターネットの口コミ掲示板で評判の「萩パール」という宿を予約しました。巷説では、「部屋とお風呂はちょっとぼろいけど、料理とおもてなしは最高」と。リーズナブルな値段で食卓に満載の海の幸を夢見て、いそいそと予約を入れました。ところが、昨日、当の萩パールから電話が入り、「お風呂が故障して、修理に時間がかかりますので、今回は申し訳ないのですが・・・」とのこと。が〜ん。ちょっとばかしぼろいといっても、まさか壊れるとは・・・ しかし、別の料理自慢の民宿を紹介してもらい、無事予約出来ました。そして、三泊目。これが、まだ決まっていません。油谷町か豊北町で捜しているのですが、情報が少なくて、決めあぐねています。う〜ん、出発前日の明日には決めたいのですが。
 それにしても、噂の料理自慢の宿「萩パール」、今度行くときは絶対泊まって見たいと思います。と、決意も新たに(?)、旅支度を進めるのでありました。

2004年9月21日(火) 『世に棲む日日』

 三連休の残り二日、久々にホームページを更新!と思いきや、お掃除好きのTarlinが、「今日は、部屋の掃除と洗車!」 連休のうち、日曜の午前午後をまるまるつぶしての作業。あとは、ひたすらDVDのダビングに明け暮れました。
 まず、一昔前の新春時代劇『奇兵隊』の後編を、ビデオからDVDに録画。高杉晋作が主人公のこのドラマ、面白かったのですが、高杉晋作が臨終の床につく場面の直前に『大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争・・・』云々のナレーションが流れます。そして、その後、高杉晋作没。おいおい、ちょっと待て〜!高杉晋作が亡くなるのは、大政奉還の前でしょう〜!確かに、桂小五郎が、枕元で高杉に「新しい時代はまだ来ておらぬのに」というような趣旨のことを絶叫しますが、「高杉晋作は、大政奉還後没」としか見えません。まあ、史実とドラマは別なのですが・・・
 Tarlin姉様の夫殿に頼まれて、新春に放送していた『竜馬がゆく』をDVDのHDDからディスクに録画しています。原作を読んでから改めて見ると、これが、はっきり言って、悲しいかな、脚本が今ひとつ・・・ 天誅や切腹など、人の手に寄る「死」が日常茶飯だった幕末に、竜馬が「命」尊んだというのを強調するのは分かりますが、この面ばかりがクローズアップされて、なんというか、司馬遼太郎が描いた竜馬という大きな器がすぼんでしまってます。
 生命の尊重は、確かに竜馬の先見性の顕れですが、それは彼のもっと大きな思想の枠組みの中の一つであったはず。武市半平太も、なんだか分からず屋の殺戮屋になっているし・・・ 原作では、竜馬も半平太ももっと大人。これが、まったくのオリジナルドラマならまだよかったのですが、司馬遼太郎の小説を原作に据えている以上、原作のテーマを掬い損ねているとしかいえません。もっとも、それが原作とドラマは別作品、といえばそうなのですが。
 今、三谷幸喜の『新選組!』が史実とかけ離れているとか、無理があるとかでかなり批判を受けているようですが、こうして見ると、どのドラマも結構無理、もとい脚色をしていますね。司馬遼太郎の小説も、読んでいて、どこまでが史実でどこまでが創作か、知りたくなることしきり。創作が巧みで、いかにも本当らしく見える分、罪作りかもしれません。裏を返せば、どの作品でも、史実にない創作の部分を見ると、人が何をもって物語としたいのか、すなわち、「物語る動物」としての人の本性がよくあらわれています。その意味でも、どこまでが史実でどこからが創作か、歴史小説への興味は尽きないのです。

2004年9月20日(月) ダビングと掃除の日々

 昨日遅く、萩・津和野の旅から帰ってきました。今日は疲れが残って、少しぐったりモードです。秋雨前線のおかげで、お天気はすっきりしませんでしたが、心に残る、味わい深い旅でした。また詳しい旅行記は、後日の「月の北」に載せるとして、簡単に旅の概要を・・・

9月23日(木) 午前2時半、家を出発。車のハンドルを握るTarlinの横で、睡魔に弱いErillはひたすら爆睡。9時頃、津和野に到着。山に囲まれた、こじんまりした絵のような街。「蕗の屋」というお店で、ツワブキご飯の朝食を食べて、街歩きへ。まず、教会や旧津和野藩校「養老館」の並ぶ殿町通りを歩きます。Erill、津和野という所は、鯉が泳ぐ水路が町中を縦横に走っていると思っていたのですが、この殿町通りだけだったのですね。ちょっと拍子抜けでしたが、考えてみれば、維持が大変だし、当然のことでした・・・。
 雨がそぼ降る中、森鴎外と西周の家を見学。二人とも幼年期に津和野藩校の養老館で学んでいます。津和野藩の教育水準が高かったのでしょうか。津和野は文人や画家が多いですね。この後、入った杜塾美術館では津和野出身の画家、中尾彰の高原から抜け出てたようなパステル調の詩情あふれる絵を、安野光雅美術館では同氏の絵本やポスターの原画を楽しみました。
 この日は、「四季の詩」というオーベルジュに泊まりましたが、泊まり客は私達だけ。舌のとろけそうなフランス料理のディナーを堪能し、食後は話し好きのオーナー夫妻と、温かい歓談の一時を過ごしました。

9月24日(金) 津和野を出て、萩へ。あいにくの曇り空。長州の城下町散策は、白壁が青空に映える晴天の時にしたいと思い、この日は、幕末の長州の台頭の端緒をつくった吉田松陰ゆかりの史跡を巡りました。松蔭生誕の地、アメリカに渡ろうとして黒船に接触した後、国禁を犯したとして投獄された野山獄と岩倉獄、松蔭が蟄居していた実家、松下村塾、松蔭神社、遺跡展示館、蝋人形館、松蔭が久坂玄瑞や高杉晋作とともに埋葬されている墓地。
 しかし、司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読み、これだけ史跡めぐりをしても、吉田松陰という人が今ひとつ掴めません。それだけ多才な思想の巨人だったということか、登場した時代が早かったがために(だからこそ先駆者たるのですが)、思想も行動もどこか未完に終わったということなのか・・・ ううむ。

9月25日(土) 朝から待望の晴れ空。宿を出たあと、早速、城下街を散策。城下町の町並みが、他にないような大きな区画でそのまま残り、古色蒼然とした雰囲気。白い土塀の影から幕末の志士がふらりと現れても、不思議でないような風景です。高杉晋作の生家、毛利家の居城、指月城に長州史を偲だ後、Tarlinのたっての希望で田床山へ。あまり知られていませんが、萩市街が一望できる、展望スポットです。道端の台風で倒された木々に「本当に辿りつけるの?」と不安になりながらも、無事に到着。ここからの眺める萩の街と、その向こうに広がる日本海の青さは、素晴らしいものでした。
 午後、萩の街を後にして、西長門の海岸線通って、角島へと向かいます。萩では晴れていたのに、海が見え始めたあたりから、空がどんより曇ってきました。高台から日本海を見晴らせる千畳敷を訪ねましたが、真っ青な海の色は望むべくもなく、見晴るかす鈍い色の海が広がっています。日の当たった所が、晴れた日の華やかに澄んだ色を辛うじて予感させます。少し残念でしたが、強い風といい、デンマークの曇り空の北海を思い出し、Erillには懐かしい風景でした。次に、立ち寄った潮吹き穴は、荒波にここぞとばかり噴霧を吹き上げ、悪天候ならではの迫力。その後、油谷の棚田、角島大橋、角島灯台とドライブして、本日の宿、つのしま旅館に到着しました。

2004年9月27日(月) 萩・津和野

 今から一月前のこと。家にクラビノーバが来ました。Tarlin母様が、70の手習いで昔少し習っていたピアノをまた弾きたいと、購入したのです。しかし、手近に新しい物が到来すれば、触ってみたくなるのが人の性(さが)。小学生の時、バイエルまで習ってピアノを辞めたErillも、やはり再び弾いてみたくなり、ちょくちょく弾かせてもらっています。
 不思議なもので、同じ曲を弾いても、子供の時より易しく感じます。どうしてだろう、と思うのですが、

1.「大人の手」になっているおかげで、子供にはきつい遠い鍵盤にも指が楽に届く。
2.子供と違って、弾き方をやみくもに指に覚え込ませるだけでなく、頭で考え、構成できる。
3.機械的な練習も、なぜ必要なのか理解できるので、苦にならない。
4.自分の中にはっきりした動機や目的がある。

 語学もそうですが、習い事は動機や目的がはっきりしている大人のほうが、身が入るし身になる面も多分にあるようです。最近、大人の間で「やり直しピアノ」が流行っているそうですが、納得です。
 さて何を弾くかですが、さすがにバイエルのような練習曲を弾く気にはならないので、少々、いやかなり背伸びでも、弾いてみたい曲で、練習次第で何とかなりそうな曲を捜して、鍵盤の上で指をばたばたさせています。バイエル程度の初級でも弾ける曲って、そこそこあるんですね。サティの「ジムノペディ第1番」が、このレベルというのは嬉しい発見でした。
 しかし、とにかく曲を弾いていれば、技術は程度の差はあれ後からついてくると信じながらも、ぎこちなく指を動かしているうちに、やはり系統立てて練習した方が、結果的には効率が良いのではと思い始めてきたのも事実。二週間に一度くらいのペースで、以前すこしかじった声楽と両方教えてくれる先生がいれば、習ってみたいところなのですが。
 魔法使い修行だけでもやることがたんまりあるというのに、やりたいことばかりいっぱいで、困りものです。

2004年9月29日(水) やり直しピアノ

 
 そして、本日のメインは、実はこの宿だったかもしれません。ちょうど離れのように独立した部屋からは、海が見えます。極めつけは、料理。アワビ、サザエ、イサキ、タイなど角島の海の幸が惜しみなく並び、その身がかつて食べたことのないほどプリプリで甘いのです。北海道や福井、四国など、いろんな所で美味しい魚に巡りあいましたが、この美味しさは群を抜いています。女将は、話し好きな何とも達者なおばあちゃん。 出立の時にはなんだかとても仲良しになっていました。

 9月26日(日) 旅の最終日。 つのしま旅館の近くにある牧崎風の公園に寄ってから再び萩へと向かいました。最初に訪れた藩校明倫館跡は、その名も萩市立明倫小学校として利用されているのですが、ちょうどこの日は運動会が行われていました。すると、拡声器から「維新のほにゃらら〜〜が始まります。」というようなアナウンスが聞こえてきました。流石、この地は今でも革命の気運が衰えていないようです。

 
 その後、江戸屋横町にある木戸孝允の生家を訪ねました。当時の面影が今なお残る道筋は何かを語りかけてくるようでした。
 そして、本日のメインはなんと言っても萩焼です。実は、Tarlinは大の萩焼好きっ子なのです。お家でも愛用している湯呑みもお猪口ももちろん萩焼です。かねてより目をつけていたお店で物色すること30分、美しい形をしたお皿を買いました。というか買ってしまいました。
 お買い物の後は、腹ごしらえです。萩の名物料理「うに飯」で遅い昼食を取り、夕方4時頃、萩を後にしたのでした。

 こうして、3泊4日渡る萩・津和野の旅は、渋い余韻と、一抹の無念を残して、幕を閉じたのでした。晴れ空の下の、碧く棲んだ角島と長門の海岸線を見てみたかったという無念を・・・ いつかまたリベンジ戦に来るべしとの誓いを立てつつ、家路をひた走ったのでありました。(完)